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PROJECT 04

TITLE/  長谷康雄「大阪おかま野郎」

DATE/  2018

CITY/  大阪市 Osaka

SINGER/ 村上はるき

READER大阪おかま野郎
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長谷康雄的「大阪おかま野郎」

洪さんの紹介で長谷さんと知り合って、そして長谷さんが作った「大阪おかま野郎」という歌を耳にしました。歌詞の内容は自分のジェンダーアイデンティティや世間から冷たい眼差しを感じていることなどを描いています。長谷さんは1928年に非嫡出子として生まれました。小学校の六年生まで、ずっとおばあさんの姓を継いでいましたが、上級校へ進学するために、この戸籍では難しいため、お父さんの姓に変えました。

 

第二次世界大戦時、通信兵として満洲へいきました。当時、彼は15歳ぐらいの多感な年頃で、自分の「性」について苦しみました。戦争が終わり、帰国したのち、通信技術を活かして郵便局に勤めていました。その後、いろいろな仕事をしましたが、どれも長く続けられませんでした。

 

「仄かに青いゲイボーイ

夜風に吹かれて店の外

男をみつめてイカれてる

酸っぱい男がすきなのよ

見初めて染めて醒めている

あまく酸っぱいブルースよ

大阪 大阪 おかま野郎

大阪 大阪 おかま野郎」

 

長谷さんはある人生経験豊富で紳士な男性が好きでした。しかし、長谷さんの恋は片思いのままで終わりました。昔、ギターを買いましたが、ギターを友人に貸して壊されました。でも友人はお金がないので、弁償してもらいませんでした。そのため、音楽を学ぶ機会も逃しました。ですが、昔、長谷さんの母は喫茶店を経営していたので、店内にいつも音楽が流れていたのを聞いていました。それを思い出して、曲を作ったり歌詞を書いたりすることが出来るようになりました。誰かに自分のことを理解してほしくて、自分の想いを歌にしています。

 

「堂山町を歩いたわ

ブーツを穿いてスクラム組んで

ルージュを塗ってアイシャドウ

月が出ている つけ睫毛

レモンイエローが切ないわ

レモンイエローが酸っぱいわ

大阪 大阪 おかま野郎

大阪 大阪 おかま野郎

 

裏へ回れば暗い闇

猫がごそごそゴミ箱漁る

人に棄てられ 拾われて

酸っぱいスパイス利いている

オトコの苦い味がする

あまく酸っぱい 風が吹く

大阪 大阪 おかま野郎

大阪 大阪 おかま野郎

 

世間がおかまを笑ってる

世間がおかまをわるく言う

男がおかまをよけてゆく

なんでおかまがわるいのよ

からだいっぱいぶっつけて

世間の壁に体当たり」

 

彼はこのような歌詞を書きました。

 

長谷さんとのインタビューの途中で、自分が書いた本を何冊か出して、「全部あげるよ、もう九十歳なんですが、死んだら何も持っていけない!」といいました。この勤勉な作家が私たちに本を貸すのではなく、譲ってくれるとは思いもよりませんでした。

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ひろ子ママ(西元昇)と彼女のお好み焼き屋の話

 

長谷さんと出会って、彼の歌詞をストリートアートにして西成に飾るつもりでした。良い場所を調べている最中にもう一人の大阪おかま野郎と知り合いになりました:ひろ子ママ(西元昇)。

 

通天閣の美空ひばりと呼ばれて、1944年に生まれました。集団就職で鹿児島から仕事の多い大阪へ行き、鉄工所で働いていました。当時、ひろ子ママが訪れた新世界ではオカマバーが盛んでした。最初、オカマの仕事を始めたとき、恥ずかしかったけれど、これが自分の生きる道と思いながら、化粧して自信をもつようになりデビューしました。

 

そしていろいろを学んでいました。

例えば、人に接することとか化粧することとかが好きになりました。化粧してから、自分を表現して、人生を謳歌していました。オカマの仕事でお金を貯め、40歳の時に化粧を落して、お好み焼き屋を始めました。店をはじめてから、お姉さんと母親とも交流が始まりました。ひろ子ママは自分の子供はいないけれど、お客さんがみんな自分の家族だと思っています。オカマ時代の知り合いもお店に来ます。

みんなにママと呼ばれて、まるで皆のお母さんみたいです。

 

(協力:武田倫和監督、Earth Café、洪譽文)

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長谷康雄的「大阪おかま野郎」

在大阪釜崎地區,台灣研究生洪譽文的介紹下認識了長谷先生,以及他譜寫的歌曲「大阪おかま野郎」(大阪人妖),歌詞描寫自己的性別認同,以及受到社會異樣眼光的感受。長谷先生出生於1928年,由於是私生子,過去的姓氏承繼自奶奶,直到小學畢業前,戶籍上若沒有正式的登記,對未來升學會有影響。於是在那之後,才改變姓氏與父親同姓。第二次世界大戰間,曾經徵召去滿州國當通訊兵,當時正值青春年華的他,對於自己的性向和眾人不同,備嘗艱苦。戰爭結束回國後,靠著通訊的技術,曾到郵局工作,此後也輾轉各種行業,但都十分短暫、不固定。

 

「青澀的Gay Boy
晚風吹拂的店門外
尋找男人然後攜手離去
喜歡有點歷練的男人
邂逅、交往、如夢初醒
如一首酸酸甜甜的藍調
大阪 大阪 人妖
大阪 大阪 人妖」

 

關於男人,長谷先生喜歡比自己年紀稍長的紳士,那種有點歷練的男人,但也僅停留在單戀階段。早期買過一把吉他,但借給朋友後卻被弄壞,知道朋友沒錢,也不好意思要他賠償,因而錯失了學習音樂的機會。然而,過去母親經營喫茶店,從小耳濡目染之下,現在才能譜曲、寫歌,因而常把自己的心思與感觸化作音樂,期待有人能了解。

 

「穿越堂山町
踩著性感靴子 互相挽著手臂
塗上口紅、擦上眼影
宛如假睫毛的月亮露臉
讓人難受的檸檬黃
好酸楚阿
大阪 大阪 人妖
大阪 大阪 人妖

從陰暗處走向深淵

野貓嘎吱嘎吱地翻找垃圾箱

被人拋棄 被人撿走

又是酸楚的滋味

也有著男人的風霜

酸酸甜甜的  隨風吹拂

大阪  大阪  人妖

大阪  大阪  人妖

世人都嘲笑人妖
世人都說人妖的不是
男人都躲的老遠
到底人妖哪裡不好 ?
混身瘀青擦傷
撞到社會的藩籬」

他的歌詞是這樣寫著。

言談間,長谷先生拿出數本自己的著作,原以為是要借我們翻閱,沒想到這位勤奮的作家,打算全部送給我們,「你們拿去吧,我已經老了,死後什麼都帶不走的。」

 

西元昇與她的大阪燒店的故事:

與長谷先生碰面後,決定從他的歌詞去重新詮釋成街頭壁畫,呈現在大阪西成區。尋找壁畫地點中,我們也認識了另一位大阪おかま野郎:西元昇媽媽。江湖人稱她「新世界的美空雲雀」,1944年出生,當初由於鹿兒島缺乏工作,大阪正蓬勃發展,便離開故鄉鹿兒島,隨集體就業來到大阪東北的鐵工廠工作。隨後,因緣際會來到了大阪市南邊的「新世界」,當時新世界有許多第三性公關酒吧。在從事第三性公關時,一開始感到害羞,雖然害羞,但覺得這就是自己的生存之道,於是就這樣帶著自信粉墨登場。從事第三性公關學了很多,喜歡上待人接物,以及「化妝」這件有趣的事,開始化妝後,就很想表現自我,像在為自己的生命高歌一曲。工作一段時間後,她存了一筆積蓄,在通天閣下開了間大阪燒店,卸去妝容後,才敢和家人說自己有份正職工作,在大阪開了一間小店。由於並沒有小孩,過去酒吧的客人也會光臨現在的大阪燒店,客人就像他的小孩一樣,也都稱呼他為媽媽。

 

(特別感謝翻譯、共同編輯的洪譽文,EARTH cafe以及武田倫和導演。)

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